エッセーコンテスト~心に残る思い出ごはん~審査結果について
令和5年9月末から令和6年1月上旬まで募集をいたしました「エッセーコンテスト~心に残る思い出ごはん~」の審査が終了しましたので、結果を公表します。
本コンテストは、全国各地から668作品の応募があり、多くの方に「食」について改めて考えていただけました。たくさんのご応募ありがとうございました。
応募総数
668作品
審査結果・作品紹介
順不同・敬称略
※年齢は応募時点です。
※作品は原文のまま掲載しています。
最優秀賞(1名)
小松崎 凛(7歳・埼玉県)「しょうりのウィンナーおにぎり」
「これがさいごかもしれないよ」
パパが一じきたくをゆるされた日、ママはちょっとさびしそうにいった。じつをいうとぼくのパパは二ねんまえからガンというむずかしいびょう気にかかっている。手じゅつもしたし、ほうしゃせんといういたいこともいっぱいした。それでもパパはどんどんやせてって、おいしゃさんには「もうなおらない」といわれてしまった。
その日びょういんからかえったパパは、いきなりおにぎりをつくりだした。中はナゼかウィンナー。
「なんでウィンナーなの?」
ぼくはパパにきいた。するとパパはこうこたえた。
「ウィンナーってえいごのWINNERとにてるだろう。つまり、しょうしゃってこと。パパがガンにかてるようにウィンナをたべるんだ。」
パパはそう言うとにっこりわらった。ぼくもなんかやる気になって「よし!」といった。それを見たママはトイレ行くふりしてないてた。三人でたべたおにぎりはなみだで、しょっぱくなった。三日ご、パパは天ごくへいった。パパはガンにはかてなかったけれど気もちではまけてなかった。あのおにぎりのウィンナーのいみをぼくはずっとわすれない。
パパ、しんじゃってさみしいよー。かなしいよー。でもずっと大すきだよー。
りんより
優秀賞(5名)
菅沼 博子(81歳・愛知県)「自然薯ご飯は幸せご飯」
嫁いできて初めて「自然薯ご飯」を口にしたとき、粘りと風味の違うその美味しさに驚いた。三歳で父を亡くし、母と弟との母子家庭で育った私には、父親がご飯を作る景色も新鮮で驚きだった。
何をするにも丁寧な義父が、とにかく手間暇かけて作る自然薯ご飯は、義姉たちや夫の友人が来た時には、必ずこれで接待することに決まっていた。
義父が元気なころは、山で採ってくる文字通り天然の芋だった。その時の様子を、
「山の土を深く深く掘って採るのだが、その作業が大変だった。根っこの先端はもう細くて食べられないのに、最後まで折らずに綺麗に掘り上げるのがオヤジの拘りだった。俺が乱暴に手を出すと、いつも叱られたものだ」という思い出話をするときの、愚痴を言いつつも誇らしげに話す夫の顔が忘れられない。
義父が亡くなると、一切家事などに手を出したこともない夫が、自然薯飯だけは「俺の役目」と作ってくれた。芋をきれいに洗った後、おろし金ではなくすり鉢のあの細かい目で芋をすりおろした。肌理の細かい泡立つような汁に拘って作ろうとしたが、とても義父のように根気よくはできなかったがそれでも十分に美味しかった。
夫も亡くなり、芋も高価になり手間もかかるこのご飯は、今は、お正月の定番のご馳走となっている。
義父と夫の遺してくれた思い出のご飯を仏前にお供えし、娘や孫との親族全員で頂くたびに、つくづく、自然薯ご飯は我が家の幸せご飯だとの思いに満たされる。
青木 そら(16歳・臼杵市)「思い出のばっぽ」
私には、ふと思い出し暖かい気持ちになる思い出のおやつがある。
私の通っていた小学校は全校生徒が五十人に満たない少人数校だったが、地域のおじさんやおばさんが田んぼの先生となり、一年を通して私たちに熱心に米作りを教えてくれた。その行事の中で、私の一番の楽しみは何と言っても稲刈りの後のおやつ「ばっぽ」だった。
ばっぽは臼杵に古くから伝わる蒸し饅頭のことで、ポルトガル語の「蒸す」という意味の「vapor」から「ばっぽ」と名付けられたらしい。
私達が稲刈りをしている間にお母さん達が作ってくれたばっぽは、形が不揃いでお店で売っているような完璧なものではなかったけれど、田植えの後に校庭のすずかけの木の下で友達や先生、地域のおじさんやおばさん達とわいわいおしゃべりをしながら食べるばっぽはとても美味しかった。へとへとになった体に甘いあんこが沁み渡って自然とみんなが笑顔になった。その後、私達が六年生になった頃、コロナウイルスが流行し始め、小学校行事も制限され田植えの後のばっぽもなくなってしまった。
今もばっぽを食べると、あの秋の穏やかな日差しや、賑やかな友達の笑い声、楽しかった小学校生活の思い出がよみがえってくる。ばっぽは私にとって幸せな感情とノスタルジーに浸れる大切なおやつである。
生越 寛子(44歳・大阪府)「最高のお弁当」
私の父は料理が得意だ。私のお弁当も早起きをしてよく作ってくれた。高校入試の日も早起きしてお弁当を作ってくれた。私にプレッシャーをかけるでもなく「ほーい、いつもの」とにやにやしながら渡してきた。昼休憩に私はお弁当箱を開けた。そこには桜でんぶで桜が描いてあった。合格の桜の花のように明るい鮮やかさで私の背中を温かく押してくれた。父の愛をぎゅっとそこに詰め込んだような最高のお弁当だった。家に帰ると、またいつもの笑顔で父は弁当箱を受け取った。特に何も聞かずに。希望の高校に進学でき、大学も進学し、そして結婚のため私は家を出た。その後に母が他界した。父は一人となった。父はそれからあまり料理をしなくなった。「料理はさ、食べてくれる人がいて作っていたようなものだからさ」と。だんだんと小さくなる父の背中に私は寂しさを感じた。ある時、私はお弁当を作って父に持って行った。それは思い出のお弁当。桜でんぶで桜を描いたお弁当だ。おかずも父直伝の肉巻きや卵焼き。美味しい物をいっぱい詰め込んだ。「一緒に食べようよ」父はお弁当を開け、はっとした顔をした。あの時のお弁当を覚えていてくれたのだ。そこには桜でんぶの桜が咲いていた。私から精一杯のありがとうと大好きだよの気持ちを込めた。父も私も笑いながら、そしてうっすらと涙を浮かべながらお弁当を食べた。お父さん、長生きしてね。
小松崎 潤(40歳・東京都)「親子の唐揚げ」
六人兄弟の末っ子に生まれた私。おかわりはいつも最後。ラスト一個のからあげをめぐってジャンケンで負けたことは数知れず。それでも母はいつも僕の味方だった。
しかしある時。母に叱られた兄がつい「お前だけ母ちゃんの子じゃないくせに」と言った。それはもうショックで。僕はおかずを取られたことよりも、母と血がつながっていないことが心底悲しかった。その日ひとりで泣いていると母がやって来た。おそらく僕に気を遣ったのだろう。兄に取られたはずの唐揚げを皿いっぱいに持ってきた。でも僕は悲しくて。悔しくて。母を見るなり「どうせ本当の親じゃないくせに」と泣きじゃくった。それを聞いた母は、もっと、うなだれた。
「みんな、母ちゃんの子だよ」
そう言って僕を強く抱きしめた。正直こんな母を見たのは初めてで。その日食べた母の唐揚げは、最後、涙でしょっぱくなった。
あれから三十年。今も唐揚げを食べると何とも言えない気持ちになる。それでもつまづいたとき。どうしようないとき。唐揚げは元気をくれる。母のやさしさがよみがえる。そう。唐揚げは僕にとって思い出の味。食べるたびに元気になれるおふくろの味。もし生まれ変わっても、また、母の子になりたい。幸せだったと伝えたい。母も「うれしい」と言ってくれるだろうか。いつか天国でその答えを聞かせて欲しい。
高橋 千佳子(48歳・臼杵市)「ポテサラ即興曲をもう一度」
人生のベスト3皿を考えると、もはや味わうことのできない記憶の中の味をあげてしまう。その中でどうにか再現したいとチャレンジを続ける一皿がある。祖母と作ったポテトサラダだ。
十歳の頃、臼杵の祖父母の家での夕食の支度中、食の細い私への配慮か、祖母が「ポテトサラダを作ろう。」と言った。二人で外の小屋から野菜を集め茹でたり切ったりし、あとは混ぜるだけ、という時になり私はマヨネーズがないことに気付いた。祖母は事もなげにボウルに卵黄を割り入れ、蛇腹の器具でカチャカチャと撹拌していった。私に油差し持たせ、「細~く垂らして。」と言いながら混ぜる。冷たい土間の叩き台で静かに二人の共同作業は進む。やがて卵液は蛇腹の型が付くほど硬くなり、酢と塩を加え油を追加し、祖母の手が静止した。マヨネーズの完成だ。黄金色のマヨネーズを加えると、萎びた人参も胡瓜も艶やかに蘇った。その味は程よい酸味と塩加減に卵の風味が生きた絶妙な美味しさだった。私はお箸の筋が残るほどきれいに食べ上げた。
四十を過ぎ祖母も逝った今頃、あの日の味を再現しようと度々マヨネーズを作るが、うまくいかない。もっと習っておけば、と悔やまれる。しかし、あの日私は料理の楽しさを知った。それこそが祖母が教えたかった事の様に思う。楽しく作って食べられたなら、身体に力が湧き、大抵の事は乗り越えられる。生きる力をありがとう、おばあちゃん。
特別賞(10名)
小原 すみ江(72歳・大阪府)「前祝い」
人生に於いて試練の一つである公立高校の受験の朝、母はメザシを焼いてくれた。
前年に父が亡くなっていたので、私は公立高校一校のみしか受けられなかった。
もし、不合格なら内科医院の住み込みをして看護学校に通う手筈になっていたが、母は高校にだけは行かせたいと思ってくれているようであった。
私にとって、後がない公立高校の受験日の朝、母は私に向かって「きょうは前祝いでお頭付きのメザシを焼いたわ」。と言った。お頭付きのメザシとみそ汁のごはんは、嬉しかったが、緊張して味わうどころではなかった。母の気持ちが胸にずんと応えていたのだ。そして、前祝いの朝ごはんを食べて、最寄りの駅へ向かったのだが、あろう事か途中の乗り換えの電車の中で、足を滑らせて転びそうになった。危かった。
雨降りの日で足元が悪く、電車の床は滑りやすい状況だった。私は電車の中では滑ったけれど、入学試験は滑らないぞ、と自分自身に言い聞かせて受験した。
数日後、私は校舎の壁に貼られた合格発表で、無事に受験番号を見付ける事ができた。合格できた喜びの涙が出てきた。
公立高校へは奨学金で通ったが、充実した三年間になった。
受験合格の前祝いに母が焼いてくれたメザシの朝ごはんは、今も忘れられない。
山田 洋(70歳・佐伯市)「ほうれん草抜き」
1977年10月のある日曜日。私は自宅でお見合いに臨む。私24歳、彼女23歳。彼女は着物姿の母親と一緒に駆けつけ、私の両親も同席した。私は彼女のさわやかな笑顔に一目ぼれ。和やかな雰囲気の中、母の手作りの昼食に苦笑いの展開が待っていた。
巻き寿司が大皿と小皿に分けてテーブルに並ぶ。小皿は私の前へ。母がズバリ言った。「ほうれん草抜きです」と。選りによって彼女が居る席で言わなくても…。私は恥ずかしくて彼女から視線をそらしたその時、小声でくすくす笑ったような気配を察した。
私特製の巻き寿司は厚目のたまご焼きの具のみ。のりの香りとたまご焼きの甘みで絶品な味わいだった。母の巻き寿司は十八番だ。
母は私のために気遣って嫌いなほうれん草を入れなかった。感謝の半面、母の優しさについ甘え過ぎたかもしれない。気難しい父からは一喝されたことも。「食わんか!」と。
私は彼女と結婚後、手料理にはまる。ちょっとした調味料の加減で青野菜特有の苦みが押さえられ、かんぴょうやほうれん草の具の巻き寿司が好きになった。妻のおかげであたかも料理の魔法にかかったみたいだ。
巻き寿司を作る妻の手が止まった。にたっと笑う。「信じられなかったわ」と妻は、お見合いの日の巻き寿司を思い出したようだ。私は返す言葉が見つからなかった。「ほうれん草抜きの巻き寿司」珍騒動は、40数年後の今も夫婦の笑い話に花を咲かせている。
東 美鈴(58歳・岡山県)「母の稲荷寿司」
母が認知症になった。
徘徊が始まり施設に入って三年が経つ。八十七才の今、父や私もわからず、目も合わせてもくれない。ただ、
「お稲荷さん、美味しかったよ」
と言うと、表情を和げ小さく手を動かす。
そう、母は稲荷寿司を作るのが得意で、四十年以上、どこへ行くにも手土産として稲荷寿司を持参し、多くの人から「おいしい」と言われてきた。
「具材を煮て最後、卵を入れるんよ。卵が煮汁を吸うから、こんなに美味しいんよ」
作り方の説明をする母は誇らしげで、私はそんな母が恥ずかしく、ときには自慢に聞こえ嫌悪感さえ抱いていた。
私は結婚して三十二年が経つ。淡々と当り前に作る毎日の料理。特に若かったころ、その料理に「もっとほめて!私を認めて!」と願望のようなメッセージを無意識に入れていたとフッと気づく。
母もふるまう稲荷の中に私と同じ願望があったのではないか?家族が言わない「美味しい、すごい」の言葉を人からもらい、自分の存在を確認し、心の栄養にしていたのではないか?といま想う。
なんのとり柄もない母が、手を抜かず作る稲荷寿司をもっと「美味しい」と言えばよかった。稲荷寿司を見るたびに背中を丸め、すし飯を包む、ひたむきな母を思いだす。
また母に会いに行こう。
雑賀 明美(67歳・大阪府)「冬支度」
我が家で冬支度と言えば「奈良漬作り」
小学生の頃から私の役目は白瓜の綿をスプーンでくり抜き、陰干しをして、少し水分が抜けてしわができるのを見守ることでした。その後は母にバトンタッチ。母が酒粕にザラメを混ぜると、人差し指に一口すくい取って、あ~んと味見をさせてくれます。それはアルコールの匂いもして、私にとっては大人の味でした。緑色の白瓜が時間を経て、べっ甲色に変わります。その間も酒粕は息をしていると母が教えてくれました。その奈良漬けは、翌年の元旦に我が家の食卓に並びます。薄味にしたお雑煮に奈良漬けがよく調和し、今年は少ししょっぱいとか、歯ごたえがあるとか、家族で笑ったものでした。瓜についた酒粕は水洗いではなく、ふき取り、その酒粕は白いご飯に乗せます。魚をつけたりもして無駄にしません。新しい年を迎え、ささやかで、平凡な幸せの味でした。お正月だから、おせちやご馳走がいっぱいあったのに、奈良漬けは我が家の主役であり、風物詩でした。母が百歳で亡くなる少し前まで続きました。
今でも奈良漬けは我が家の食卓の常連です。全国から取り寄せでき、多彩な野菜もあります。いずれも外れることなく美味しい。でもなぜか、しっくりこないのです。手塩にかけ、甘いだの、しょっぱいだのと笑顔を運んでくれたあの味。お母さん、上手くいくかな?この冬は奈良漬け作りしてみます。
漆原 香里(57歳・千葉県)「思い出の焼肉」
私が小学校中学年の時だ。その日余りにも疲れていた私は、目を覚ます事が出来ず粗相をしてしまった。オロオロしている内に母が起こしに来て、怒ろうとした時、父がやってきた。「俺が洗濯して乾かすから怒るな。香里も気にするな」
そして父は言葉通りに実行してくれた。全て干し終わると、「パパと焼肉を食いに行こう!」と言い出した。私が「何も食べたくないよ」と言っても、「いいから行くぞ!」と無理やり連れだした。
焼肉屋に着くと父は、「パパが適当に頼むぞ!」と言って、麦酒と焼肉を数皿頼んだ。しばらくして注文品が届くと、父は麦酒を飲みながら、「香里、嫌な事は食って忘れろ!俺だってお前と同じ事をやらかした事も有るし、嫌な思いをした事が有る。そんな時、俺は大好きな焼肉を食って忘れているんだ」と言いながらニヤリと笑った。その笑顔が可笑しくて、思わず私も笑った。「それで良い!ほら食うぞ!」
口にしてみると食べなれた焼肉が、いつも以上に美味しく感じた。気付けば一人前以上を食べていた。普段小食の私には考えられない事だ。「パパ、いつもより美味しいよ!」「そうだろ!」
父は満足そうに笑っていた。満腹になり店を出る頃には、私も元気を取り戻していた。父は、「これからも嫌な事は食って忘れろ」と言って又笑った。
父の不器用な優しさが目一杯詰まったあの時の焼肉の味は、今でも忘れられない。
阿南 純子(73歳・臼杵市)「母の香り」
遠足の朝、目覚めると、なんともかぐわしい香りが…。飛びおきた。それは外の小屋の方から香ってくる。台所に入ってきた母の手の中にあったものとはー。
忘れられない六十数年前の私の小学校時代の思い出。当時、学校の遠足といえば、近くの山に登ることだった。お弁当は「巻きずし」。おやつは家の側の大きなニッケの木の「根っこ」と決まっていた。遠足の一週間程前から、木の根っこを掘り出し、土をはたいて日干しにし、乾燥させたものをかじるのが、唯一の楽しみだった。それが、ある朝、みごとに裏切られた。母の手の中にあったものはピッカピカに輝き、フワッと湯気が香る、「パン」だった。当時、うちの近所には、一軒だけ文房具や菓子を売る小さな店があったが、パンを売っているのを見たことはなかった。イーストであろう(今思えば)その香り。なんとも言えない小麦色の丸い香り。あの香りは、今、どんなことばを使っても、言い表わすことができない。それからは、遠足の度に、母がパンを焼いてくれた。そして、最高の楽しみが、「根っこ」と「パン」になったことを鮮明に覚えていて、ひどくなつかしい。今、おいしいパンは沢山あるけれど、あの時の感動的な香りがするパンには、残念ながら出合うことはない。今でも実家に帰り、その小屋の前に立つと、あのパンの香りが…。
いつになっても忘れられないあの香り。私だけの、母だけの「パン」の思い出。
宮原 菫(8歳・竹田市)「クリスマスの夜には」
黄色くて、ほかほか。わたしは、毎年クリスマスの日に、お母さんが作ってくれるサフランライスが大好きです。サフランライスはかわいいハートのおさらにのっています。黄色のごはんには、ホタテとパプリカといかとえびがのっています。わたしは、パプリカが大好きなのでお母さんがたくさん入れてくれます。
いつも帰りがおそいお父さんが、毎年早く帰ってくる日です。でもおと年は今日は早く帰ると言ったのに、帰ってきたのは十時でした。大へんそうだなぁとお父さんのことが、心ぱいになったけど、少しさみしかったです。
「おなかがすいた」。
と、帰ってきたお父さんに、のこしていたサフランライスをハートのおさらについであげました。
「うめぇ」。
と言って食べるお父さんを見て、来年はいっしょに食べたいなぁと思いました。
わたしは、あまくて、おいしいサフランライスが大好きです。サフランライスを食べると、かぞくみんなが、にっこりえ顔になります。今年は、わたしも、いっしょに作って、かぞくみんなで食べたいです。
前田 実咲(16歳・大分市)「幸せを感じる食べ物」
家族と家で焼肉をした後。私の楽しみはいつもここからだった。お肉を焼いた灰がもう一度活躍する時だ。おばあちゃんがアルミホイルに包まれたさつまいもを、まだ熱を持っている灰の中に閉じ込める。電子レンジやオーブントースターのように電気を使うのではなく、自然の力で温めるという、今まで生きてきた中で生み出された、おばあちゃんの知恵を感じ、尊敬の念を抱いた。
これから三十分、焼き芋ができるまでの家族でのたわいもない会話が大好きだった。学校のこと、部活のこと、友達のこと。家族が話しているのを聞くのも楽しかった。いろんなことを話しているのを聞くのも楽しかった。いろんなことを話していくうちに、私の心は焼き芋よりも温まっていた。
だんだんと香ばしく、甘い香りがしてきた。おばあちゃんが一本ずつ灰の中から取り出していく。時間をかけて熟成された焼き芋は、柔らかいのに噛みごたえがあり、蜜がたっぷりでトロトロとしていた。さすがおばあちゃん。焼き芋の旨みが一番出るタイミングを分かっている。無我夢中になって食べ進め、焼肉を食べた後だということを忘れるほどの美味しさだった。いや、美味しいじゃ言い表せないほどに深みのある愛おしい味がした。
焼き芋は、人と人を結び、体だけでなく心も温めてくれる。家族とのかけがえのない時間も味わわせてくれる最強の食べ物だ。
小代 慎太朗(17歳・臼杵市)「つながれている命」
食べることは生きること。食べることは命をいただくこと。そう言われ私は育ってきた。私は食べることが大好きだ。お腹いっぱい食べたときが、一番、生きていると感じることができる。
私は昔からおにぎりが好きだ。ふりかけをかけたり、中に具材が入ったりしているのも好きだし、何も味付けしていないものも好きだ。お米が主食の日本に生まれて、つくづく良かったと感じる。
私は小学生のとき、田植えをするために、農家体験に行った。日が照るとても熱い日だった。始まりの合図があって、私は一生懸命苗を植えた。ずっとかがんでいたので、腰が辛かったのを今でも覚えている。終了の合図が鳴り、田んぼから出て全体を見渡した。私が植えた場所は、全体の一割にも満たなかった。これを見て、農家の大変さを初めて実感した。しかも、後日農家の方から、大雨のせいで、田んぼの一部が収穫不可になったと連絡があった。私でさえ悔しかったのに、農家の方々はどんな気持ちだろうかと、とても悲しくなった。その日から、私はおにぎりを一口一口噛みしめて食べるようになった。
食べることは生きること。食べることは命をいただくこと。たくさんの苦労や多くの命によって私たちは生かされている。これからもそれは変わらない。だから食事のときは敬意を払ってこう言うのだ。「いただきます」。「ごちそうさま」。
村上 睦美(67歳・臼杵市)「祖母のちらし寿司」
母方の祖母は私が遊びに行くと必ず、ちらし寿司を作ってくれた。私はこのちらし寿司が大好きだった。小学生の時、一度だけ手伝った事がある。人参をいちょう切り、絹さやは斜め切りにした。その日は、ポテトサラダも作った。私は、きゅうりを切り塩もみにしてポテトに混ぜた。やがて部屋中を甘酸っぱい酢の香りが満たし幸せな気持ちになった。「おまたせ。絹さやを卵の上に散らしてね」と言われた瞬間、自分の間違いに気付いた。
サラダに混ぜてしまったのだ。何も言えず下を向いていると「今日のポテトサラダは色が綺麗ね。誰かさんが絹さやを入れてくれたからやね。ありがとう」と祖母の声がした。「ばあちゃん、ごめん。私てっきりサラダに入れると思って」絞るように言うと祖母はニコニコしながら「いいのよ。口に入れたら一緒。お腹の中で混ざるから一緒。心配しなくていいよ」と優しく私を抱きしめた。自分が凄く悪い事をした気がした。その日のちらし寿司は、絹さやの緑色がなくて黄色と赤色がやけに目立った。食べるといつものおいしさが口中に広がり涙が溢れた。その後も祖母は必ずちらし寿司を作ってくれた。けれど私が手伝ったのは、たった一回、あの時だけだった。祖母が他界して、きちんと作り方を習わなかった事を後悔した。艶々の寿司ご飯、錦糸卵、人参の赤、絹さやの緑、私はあの美しさ、おいしさ、そして祖母の優しさを一生忘れない。出来るならもう一度食べたかった。
審査委員講評
臼杵食文化創造都市推進協議会が開いた初の「エッセーコンテスト~心に残る思い出ごはん~」に県内外から700近くの作品が寄せられた。応募の多くが予想に反して10代以下で、これからの食文化を守っていく次世代に期待ができる結果となった。
応募作品はいずれも、「食」は単に栄養を摂るだけのものではなく、命と体をつくり、時を超えて人と人をつなぐ大切なもの、そんなことをあらためて考えさせられる作品ばかりだった。すべての作品に当時のドラマが感じられる。涙や郷愁、笑いなどさまざまな感情が誘われた。
題材も食材から手料理、食べたときの家族や友人らとの関係など幅広く、バラエティー豊かなだけにいずれの作品も甲乙付けがたく、選考に困難を要した。心に訴える力作揃いで審査員の中で意見の分かれる場面もあった。慎重に審査を進め、苦労の末に入賞作を選んだ。
滋味たっぷりの作品の数々、ごちそうさまでした。
注意事項
- 審査結果について、応募者全員への通知や電話などの問合せ対応はできません。
- 作品については公開準備中です。準備でき次第公開いたします。